童話・クモのおじさん

病気が元で死んでしまったので、ケン君はあの世へいくことになりました。


いままで寝ていたベッドも、部屋の白いカベも、お医者さんも消えて、


気がつくと、ケン君のまわりは真っ暗です。


自分が死んだことはこわくありませんでしたが、この暗さにはぞっとしました。


「どうしよう。どうしよう」そう心細くつぶやいていると、後ろから声がしました。


「こっちだよ、坊や。こっちにおいで」


やさしい女の人の声でした。


ケン君が通っていた幼稚園の先生の声に似ていたので、ケン君は「ああよかった」と思い、後ろをふり返ろとすると、


「ふり向いちゃダメだ」上の方から、男の人の、のぶとい声がきこえました。驚いたケン君はびくっとして動きを止めました。


「後ろを向くんじゃないよ。そのまま、そのまま」


「だ、だれですか」顔を上に向けて、おそるおそるケン君はたずねました。


「いま、おりてぐよ」真っ暗やみの中で、たてにきらりと光るものが見えました。


それはだんだんと下に伸びてきて、ケン君の目の高さで止まりました。


「いい子だ。ゼッタイに振り返っちゃいかんよ」それは銀色の細い糸で、糸の先には黒いクモがぶら下がっていました。


「後ろを向いたら、じごくにひきずりこまれるぞ」小さいくせに、クモは良く通る低い声をしています。


「坊や。そんなクモの話なんか信じるの。おねえさんのとこにいらっしゃい」後ろから、女の人がやさしくささやきます。


ケン君はすこしふしぎに思いました。何でこの女の人は、後ろから動かないのだろう。


ぼくの前に来て、すがたを見せてくれればいいじゃないか。


「動かないんじゃない、動けないのさ」クモがケン君のギモンをさっして答えました。


「こいつらは、ひとの後ろに立つことしか出来ない。振り向かせて、とりついて、じごくに連れて行くんだよ」


 今、ケン君はクモの云うことを信用しはじめていました。と云うのも、いぜんにこのクモにあったことを思い出したからです。


「おぼえててくれたかい。いつかは助けてくれてありがとうよ」


「ああ、やっぱり、あのときのクモだったんだ」


二年くらい前、お寺で遊んでいたケン君は、一匹のクモが池に落ちているのを見つけました。


おぼれまいと、もがいているクモに草のクキをちかづけてやると、クモは八本の足でそれにしがみつきました。


それからケン君はクモを木の枝まで運んでいき、そこではなしてやったのでした。


「ちゃんとあの世へいけるよう、案内するよ」


もうケン君に迷いはありません。クモはケン君の肩にとび移りました。


「ゆっくり、前にすすみなさい」真っ暗やみの中を、ケン君は歩きはじめました。


後ろから「ぢぐじょ?、じゃまぢやがっで」という、がらがら声がきこえました。


しばらく進んでいくと、遠くに小さな明かりが見えてきます。


ちかづくにつれて、光のかたちは四角なことがわかってきました。それは窓でした。


「さあ。いちばんめの入口だ。お入り」


クモにうながされて、ケン君はその窓をくぐって、やみの外へ入りました。


最初はまぶしくてよく見えなかったのですが、眼がなれてくると、そこは建物の屋上でした。


どうやら、ケン君が今よりも小さいころに住んでいた団地の屋上のようです。


遠くにはみおぼえがあるような、ないような町並みや、もっと遠くには山々が広がっています。


「まず、ここから下におりなくちゃならない。通り道はいっこだけ。ほら、あそこに猫が居るだろう」


「ほんとだ」屋上のすみっこに青いゴミ箱があって、そのフタの上に猫が座っています。


「あの猫は屋上からおりるトビラを守ってる門番だ。ただでは通してくれない。気に入らないヒトは喰ってしまう」


「どうするの」


「まかせときな」クモはケン君を安心させるために、威勢よく云いました。


ケン君はおそるおそる猫の門番にちかづきました。猫はそれまで居眠りしていたようでしたが、


ケン君に気付いて眼を開けました。顔の三分の二が眼で、残りが口でした。


「ぼうず。何だ」猫はニャーと鳴いてケン君をにらみながらたずねました。


返事に詰まっていると、クモがケン君に耳打ちしました。ケン君はクモに云われた通りのことを口にしました。


「ゴミの集荷です」


「何だ、そうか。ほい」


猫は素早くゴミ箱から飛び下りました。それと同時にゴミ箱が屋上の床に沈んで消え、そこに階段が出来ました。


「とっととおりな、ぼうず」門番の猫がケン君の足のまとわりついて、ニャーニャーと、うながします。


ケン君はクモといっしょに階段を下りはじめました。ふと後ろを見ると、あっという間に猫の顔が小さくなっていきます。


下は団地のおどり場になっていました。でもそれ以上、下に行く階段は何処にも見当たりません。


団地の部屋につながるトビラがひとつ、しまっているだけです。


「あとは、部屋を通っていくんだよ」


うなずいて、ケン君はドアノブをにぎって、右に廻しました。サビの音がして、トビラは開きます。


中は玄関がなくてすぐに六畳くらいの部屋になってました。窓と、押し入れと、床の間しかない和室です。


「押し入れを開けてごらん」


クモにいわれてケン君はクツのまま、押し入れへ向かいました。が、ふと気付いて立ち止まりました。


良く見ないとわからなかったのですが、畳の上に、半透明の太いクダのようなものがあり、


その先を眼で追ってみると、窓のすき間から外に出ています。


「おじさん、これ」ケン君は立ち止まったまま、太い管を見下ろしました。


「あっ。良く気がついたなあ、オジサン、見えなかったよ。あぶないあぶない」


「何なのこれ」


「大クラゲの足だ。ものすごく強い毒があって、さわったものをしびれさせて食べてしまうんだよ。


でも、ふれさえしなければだいじょうぶ。またいでしまいなさい」


注意して、ケン君はクラゲの足をさけ、押し入れの前へ行きました。


「クラゲのやつ、くやしがってるよ。ほら」


クモが窓の外を二本の足で指差しました。ケン君がそちらを見ると、屋上からも見えた山々があります。


と、その内のひとつ、中くらいの高さの山がゆらゆらとゆれ出しました。


そのゆれに合わせて、クラゲの足も動き出し、やがて窓のすき間を通って、外へと引っ込みました。


山のちゅうふくあたりに巨大な眼が開き、ケン君をにらみつけました。あの山は大クラゲだったのです。


クラゲは、さもくやしげに、うらめしそうな眼をして、舌打ちしました。


押し入れをあけて少し進むと、そこは台所です。誰も居ないのに、コンロに火がついていて、けむりや蒸気があがり、


ナベやフライパンの中で、料理が作られています。


ケン君は、そのままとおりすぎようとしました。と、フライパンの中にあった赤いトウガラシがはぜて、


黄色いタネがケン君とクモのところへ飛び出してきました。


「からいぞ、からいぞ」トウガラシのタネは口々に叫び、おそいかかります。


「まかせとけ」クモはすばやく、おしりから糸を出し、投げナワを作りました、


そして、トウガラシのタネをひとつ残らず、投げナワでつかまえてしましました。


「いたずらするやつは、こうだ」クモはトウガラシのタネを流しに捨ててしまいました。


「つらいぞ、つらいぞ」タネたちは、そう云って流されていきました。


台所をぬけると、広い広い洋間でした。高い高い天井から床まで大きなカーテンが下がっていて、


どこからか吹いてくる風にゆられていました。まわり全部がカーテンにかこまれているのでどこが出口かわかりません。


「さあ。どこから外に出られるか。これは自分でかんがえて答えを出しなさい」


 クモにいわれて、ケン君はカーテンをじっと見つめていましたが、やがて、ある方向へ歩き出しました。


そして、カーテンをつかみました。


 ちょうどそこがカーテンとカーテンの切れ目になっていました。


ケン君はカーテンが一枚きりでなく、二枚あることに気がついたのです。


 カーテンを開けようとしたケン君を、クモが止めました。


「ほんとうにいいのかい。ここを出たら、もう、あとにはもどれないんだよ」


ケン君は少しかんがえましたが、はっきりといいました。


「うん。いいよ。もうもどらない。だって」


 ケン君は顔を上げました。


「おじさんといっしょにここまできて、ぼく、少しこわかったけど、楽しかったよ。


いままでとちがって、ほんとに、ほんとうに、生きてるみたいだった。もう、どこに行っても、だいじょうぶだと思うんだ」


クモは大きくうなずきました。


ケン君はカーテンを開けました。

(完/本作品の複製を一切禁じます。(C)HANOY SHANG)