中国人は日本人に較べておとな
美食家の桓公は、どんな山海の珍味も賞味し尽くし、喰った事の無いのは人肉だけだそう
だ。
そこで臣下の易牙は桓公の意に迎合するため、長男を煮殺して羹を作り、桓公に賞味させた。
桓公41年(645年)、桓公は臨終の腹心・管仲に問うて云った。
「群臣のうち、誰が貴殿の後継者として宰相に適任だろうか」
「臣下を知ること、主君にまさる者は無いと存じます」
「易牙はどうだろう」
「彼は我が子を殺して君の意に叶えましたが、これは人情ではありませぬ。適任では無いと存じます」
「開方はどうだろう」
「彼は親に背いて君に仕えました。これも人情ではありませぬ。近付け難いと存じます」
「豎丁はどうだろう」
「彼は自ら去勢して宮中に入り、君の意に奉迎しました。これも人情ではありませぬ、親しみ難いと存じます」
桓公は女色を好み、数多くの夫人を愛したため、死後、易牙らがたちまち反乱を起こした。
諸子が跡目相続を巡って争い、そのために、六十六日間も屍体は捨て置かれ、
蛆蟲が涌いて、戸から這い出る始末だったと云う。
(「人喰い忠誠心のありさま」)
永暦二年(1648年)八月、清の兵が南昌を囲んだ。兵糧攻めである。
城中に薪がつき、屋根を剥がして炊事をした。
米は一石につき、六百金にまで暴騰した。
鳥、鼠、草根すべて喰い尽くされると、人を殺して食べ始めた。
大道に見張り番が配置され、隠語が使われている。
『雄鳰』というのは即ち男で、『雌』というのが女である。
『翅がある』というのは刀を持つもので、『尾っぽがある』というものが、後ろに人がついてグループになっているものの意味で
ある。
翅と尾が無いと聞けば、たちまち躍り出て、群れて捕らえ、なぶり殺しにして食べた。
初めは軍隊が市民を食べたが、やがて群集が軍部を攻撃して、兵糧を略奪した。
最後に、父子、夫婦が互いに殺し合って人肉を食べた。
将軍は全て乱軍の中に死んだ。その死状は知らないので、多分人びとに喰われたと思われる。
というのは、薫製にされた人間か肢体が官署に散らばって溢れていたからである。
(『軍隊の動物性蛋白源』)